人生を決定づけたGARBの料理
「子供の頃から食べることにはすごい貪欲でした」 大阪鶴橋で漬物店を営む両親の元で、4人兄弟の末っ子として育った。小中高時代は野球に打ち込み、その後は音楽活動など「ひたすらやりたいことだけをやっていた」と振り返る。音楽活動でお金がいるからという理由で当時勤めた会社は「どんな仕事をするのかもよくわからないで、稼げるという触れ込みだけで入社しました(笑)」。 その頃に会社の先輩に連れられて訪れたのが南船場のGARBだった。そこで食べた料理が松城の人生を決定づける。 「衝撃でした! 自分が知らないこんな美味いものがあるのかと。それまでも食べることは好きで興味はあったのですが、料理をやりたいという考えはなかった。でも、『これをつくりたい!』という気持ちが高まって、気づいたらGARBのシェフに『この店で働きたいから、面接して欲しい』と頼んでいる自分がいました」勢いだけで飛び込んだバルニバービ
希望するGARBではなかったが、モノクロームで料理人としてのキャリアをスタートさせた。 「レードルって何?オタマじゃないの?っていうぐらいフランス料理のことなんて全くわからないレベルでした。けれど昔から興味があることはがむしゃらにのめり込む方だったので、そこでもやりたいことを思いっきりやっていたという感じです。今思えば、基礎もない僕に対して当時のシェフや先輩達はよくやらせてくれたと思いますね(笑)」 人懐っこい末っ子気質。先輩達にも可愛がられたのだろう。でもそれだけではない。 「仕事終わりに自分も一緒に帰る振りをして、みんなが帰ったのを確認してから店に戻って、先輩が仕込んだ料理の味をみたりして覚えました」 負けず嫌いの性格で人一倍努力した。 「でも好きなことを思い切りやっている感じで修行や勉強をしているという意識はなかったですね」 と語る松城、当時21歳。大筆シェフとの出会い、そして東京へ
松城が師と仰ぐ、大筆シェフとの出会いもその頃だった。 「僕の経験が浅かったので、本当の意味での大筆シェフの凄さは、もっと後になってからの付き合いのなかで感じることになるのですが、シェフのレベルがグンと上がった世界観を魅せられてさらに料理にのめり込みました」 よき師や先輩に恵まれ、持ち前の探究心で料理人としての歩みを確実に進めていた松城にチャンスが訪れる。東京でオープンする新店スタッフとして抜擢されたのだ。 「東京は食材もライバルも集まっているから一度はいっておいたほうがよいと大筆シェフからの薦めもあって、迷わず決めました」GARBの一皿で料理の世界に飛び込んでから既に5年の月日が流れていた。シェフの責任と重圧
新たなステージは東京タワー前のガーブ ピンティーノ(契約満了により2010年閉店)。 「二番手でしたが、俺の料理が1番美味い、絶対シェフになる!と闘争心全開でした(笑)」 そのため度々思い上がった面が見られることを佐藤社長は見逃さなかったという。 「社長には『二番という立場をちゃんとやりきってからにしろ!』とよくしばかれました(笑)」 しかしほどなくシェフが退社することになり、念願のシェフに昇格する。 「シェフとった!と喜んだのは一瞬で、それから夜寝られない日々が1週間つづきました。シェフという立場の責任と重圧に負けたんです」 料理が残されれば自分が作った料理でなくてもホールから「シェフ、料理どうなってるんですか!」と詰められる。「キッチンのみんなが僕をみてくる。全てシェフの責任になるということに気がついた。なってみてその大変さを実感しました。それなので、もし最初からシェフとして東京にきていたら潰れていたと思います。料理の知識や技術があっても、心の用意ができていなかった。だから、社長があえて僕を二番手にしたんだと今ならわかります」社長に教えられた「本当の美味しさ」
シェフとして切磋琢磨していたある日、佐藤社長が大事なお客様とピンティーノで食事する機会があった。松城は「渾身の料理」を提供し、営業後に社長に呼ばれた。そのときの社長の言葉と顔は一生忘れないという。 「怒るでもなく切なそうな表情で『料理まずかった』といわれました。『は?まさか!』と思いました。唖然としている僕に社長は 『お前にとって美味しいってなんなの?どこどこ産の高級な食材を使って技巧を尽くした料理がお前の美味しいなの?』 と問われました。トンカチで頭を殴られたような感覚で、あまりのショックに初めて社長の前で泣き崩れました」 そこから自分なりの「美味しい」を素直に振り返ったという。 「学生時代に友達と放課後食べたなんでもない『やきそば』でも本当に美味しかったし、小さい頃にキャンプでお父さんが炊いてくれたご飯とカレーが最高に美味しかったことを思い出しました。そして『美味しい』は料理だけが作るものではなくて、そのシーンを構成するあらゆる要素が作リ出すものなんだと気づかされました。それから本当の意味での『美味しさ』を追求するようになり、現在に至ります」料理人が輝くことができるステージを作る
「料理人が知識や技術を競い合うのは普通ですが、バルニバービには、そこに『本当の美味しさってなんだろう?』ともう一段深い『料理のあり方』を追求して表現できる環境があります。店の雰囲気を作るインテリアやBGMとの調和、スタッフとの連動はもちろん、食材を提供してくれる生産者の皆さんとのコミュニケーションまで、あらゆる全てが繋がらないと“本当の美味しさ”は実現できません」 松城はバルニバービというフィールドでその役割を担い、これまで実践してきた。そして今年、BSCの社長に就任。バルニバービグループでは初となる料理人からの社長就任だ。 「佐藤社長から言われて毎日胸に置いている言葉があります 『松城は料理人のステージを作りなさい。バルニバービに入ってくる料理人たちに松城がこれまで考えて来たことや取り組んでいることを伝え導き、活躍できるステージを用意しつづけなければならない。お前はそのためにいる』 これが今、バルニバービグループという組織で社長という立場でやらなくてはならない、僕の最大の使命と認識しています」バルニバービ スピリッツ&カンパニー株式会社 代表取締役 松城 泰三 飲食未経験からキッチンスタッフとしてバルニバービに入社。モノクロームで料理人のキャリアをスタートさせ、GARB pintinoにてシェフに就任。以降、東京を拠点に料理人として現場に立ちながら、関東店舗の責任者として料理部門を統括。2008年、株式会社バルニバービ取締役に就任。2014年、バルニバービ スピリッツ&カンパニー株式会社 代表取締役に就任。神田錦町 GARB pintinoのシェフを務める。